NINTENDO64

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{{ハードウェア|型式=NUS-001|発売元=任天堂|発売日=1996年6月23日|価格=25000円<br/>16800円(1998.03.14〜)<br/>14000円(1998.07.01〜)|その他=}}
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{{DEFAULTSORT:にんてんどうろくじゅうよん}}
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{{HARDDATA|型式=NUS-001|発売元=任天堂|発売日=1996年6月23日|価格=25000円<br />16800円(1998.03.14〜)<br />14000円(1998.07.01〜)|メディア=N64専用カセット|開発コード=プロジェクトリアリティ|ストレージ=コントローラパック(256K)}}
  
<!-- 任天堂から発売された家庭用ゲーム機。ゲームの品質としては最も定評のある任天堂ブランドのゲームが遊べる唯一の家庭用ゲーム機として、また「実況パワフルプロ野球」シリーズに代表される秀逸なスポーツゲームが遊べる家庭用ゲーム機として、両方のファンを中心に、少数派ではあったが根強い人気を集めた。
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『'''{{PAGENAME}}(ニンテンドウろくじゅうよん)'''』とは、任天堂が発売した第四世代据置型ゲーム機の名称であり、2007年現在、任天堂から発売された最後のカセット式ハードである。愛称はロクヨンで、表記上は''N64''や単に''64''と書かれることが多い。
1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、高性能ワークステーションのメーカーとして定評のあったシリコングラフィックス社と共同で開発され、当時数千万したワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って製作された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、同年末、翌年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売を果たした。
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『ゲームが変わる、64が変える』のコピーの通り、同時発売の対応ソフト『スーパーマリオ64』は3D空間内で『マリオ』を自在に動かせるゲームとしてその後のゲームの進化を感じさせるに十分なもので、多くのファンに指示されて発売から1週間の出荷台数はほぼ完売を達成した。しかし、3Dという新たなゲームの表現に任天堂自体や海外の「ドリームチーム」と呼ばれた協力会社の開発は遅れ、更にこれまで任天堂と親密な関係にあり、 NINTENDO(以下、N64)向けにソフト開発を進めていたスクウェアが『プレイステーション』に鞍替えしたことで、元々『少数精鋭主義』を謳って一般のサードパーティへの技術開示が1995年12月まで遅らせ、開発機材も高価で品薄なことから普及していなかったこともあって以降のソフトの発売予定が全く立たなくなってしまった。苦し紛れにこの年任天堂から発売されるタイトルとして14本を発表したが、1996年中に発売出来たのはわずかに2本で、多くのソフトは大幅な延期や発売中止を余儀なくされている。結局発売当日の3本の次に発売された『ウエーブレース64』はなんと夏も終わった9月まで発売がずれこみ、当然本体の売れ行きは減速し、一方PSの普及は日本を代表する人気シリーズの新作「ファイナルファンタジー7」の発売を前に拡大を始めた。
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この頃、8月14日の日本経済新聞の報道(一部誤報あり)以来、同機種の不振を伝える記事が相次ぎ、消費者のムードも悪くなる一方。それでも1995年11月の山内社長の講演や、エニックスと任天堂のこれまでの関係から日本最高の人気を誇るRPG『ドラゴンクエスト』の新作が同機向けに発売されるという観測が一般的で、ソフトの充実を待ちつつ、本体も緩やかに普及していった。が、『エニックス』からサードパーティ第1弾ソフトとして発売された『ワンダープロジェクトJ2』は散々な発売本数となり、後には最初の破格の安値ソフトとして知られる結果となってしまう。これを受けて『エニックス』もN64の将来性に疑問を感じ、翌年1月にはPS、SSへの参入と「ドラゴンクエスト7」のPSでの発売を発表、N64へは 1997年6月に発売した『ゆけゆけ!トラブルメーカーズ』を最後に撤退してしまった。一方任天堂はN64ソフトとして最も売れた『マリオカート64』の発売もあって1996年のクリスマス商戦は流石に強みを見せたが、ソフト不足は相変らずで一方PSではFF7の発売で画期づくのに対して1997年に入って3月までソフトの発売がない状態が続き、3月に16800円まで定価を下げ、ソフトの価格も全体的に抑えて普及を図ったものの、失速は目に見えて明らかな状態に陥ってしまう。その余波で1997年のN64ソフトは『コナミ』の『実況パワフルプロ野球4』や『ハドソン』の『爆ボンバーマン』などサードパーティのソフトに大ヒットの作品が生まれたものの、屋台骨であるはずの任天堂自身はというと前作が好評であった『スターフォックス64』や『ヨッシーストーリー』は発売時期の悪さも手伝って売り上げに結びつかず、『ゴールデンアイ 007』は海外での700万本を超える大ヒットに比して低調な売れ行きで、他の海外制作の作品も一部で好評価を得ながらやはり販売には結びつかなかった。またサードパーティの参入も遅々として進まず、沈滞ムードは一層広まってしまう。
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それに及んで任天堂も戦略的に1997年11月のスペースワールドに端を発する大幅なテコ入れを始める。任天堂自身はGBソフト「ポケットモンスター」の人気に肖って『ポケモンスタジアム』を開発、当初は『64DD』用として開発を進めていたが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と同様同機の普及を図ってN64用に変更した。サードパーティに対しては98年5月には『ハドソン』と共に『招布』を設立、開発会社に対しては難しいとされるN64ソフト開発を支援し、メジャータイトルや版権を持つ会社に対しては開発を請け負って優れたソフトの充実を図った。結果、1998年8月に発売された『ポケモンスタジアム』で本体の普及も若干ながら上向き、11月に発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で久しぶりのミリオンヒットを達成、大幅な本体普及に成功している。その波に乗って1998年のクリスマスは『バンジョーとカズーイの大冒険』『ピカチュウげんきでちゅう』『マリオパーティ』の三作品で大ヒットを記録、再びN64が見直される契機となった。
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1999年は『大乱闘スマッシュブラザーズ』が1年以上にわたるロングヒットを続けるなどの大ヒットを記録し、『ポケモンスナップ』『ポケモンスタジアム2』といった『ポケモン』をモチーフにした作品もヒットを記録するなど、N64そのものの売れ行きは鈍っているもののソフトの売り上げは好調を持続する。また、一部を除いたサードパーティのソフト群の不調とは対称的に『マリオゴルフ64』『カスタムロボ』『ドンキーコング64』『マリオパーティ2』といった外作の作品もそれぞれ好調で、次世代のハードに向けて、かつてのサードパーティにかかりきらないゲームソフトの充実が見えた。この任天堂ソフトの好調ぶりは『星のカービィ64』や『マリオテニス64』など2000年も継続しており、全体的に鈍ってきているゲームソフトの売り上げの中で異彩を放っている。
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NINTENDO64は、任天堂にとっては21世紀を前にした様々な修正、改革という使命をもった家庭用ゲーム機ではないだろうか。技術面としては3D表現という新しいスタンダードを確立していているし、『64GBパック』は携帯ゲームと家庭用ゲームを繋ぐプロトタイプとなった。 SFCからPSへと継承された、サードパーティによる乱造の可能性を孕んだ多彩なソフトの供給体制は、協力会社の『マリーガルマネジメント』や『招布』、或いは『任天堂』自身によるチェックをした作品を『任天堂』が発売することで、多彩で良質で売れる作品を提供できるというシステムを作り上げた。思想面でも他機種が大容量を活かして映像の美しさの追求を主流にしている中で、ゲームであることの本質を主張して、独自性を強調した。これらは初期の失敗を振り返ったことで、或いはN64が任天堂機としては初めて少数派となったことで、これだけ大きな動きを見せ、際立たせることができたのだろう。
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==概要==
『ゲームキューブ』でN64時代に試みられた様々な仕組みが花開くことは想像に難くない。  -->
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型式名称のNUSはNintendo Ultra Sixtyfourの頭文字であり、ウルトラファミコンやウルトラ64と言われていた時代の名残を超している。任天堂据置機としては初の日米欧が同じ名前となるハードで命名者は糸井 重里。
  
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また、[[NINTENDO GAMECUBE]]以降の日本語表記は「ニンテンドー」であるが、NINTENDO64や[[NINTENDO POWER]]は「ニンテンドウ」である。これは日本語表記で「ニンテンドー64」と表記すると「任天堂 - 64」の様に取られてしまうためにGC登場までは「ニンテンドウ」の表記が用いられた。
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1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。
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ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなる。
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このことに対し、任天堂の情報開発本部長である宮本 茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、[[スーパーマリオ64]]もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。
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また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面もあり、任天堂のコントローラでは最大の10ボタンかつ、3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代のNINTENDO GAMECUBEより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。
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後年、当時任天堂の社長であった[[山内 溥]]は「NINTENDO64は失敗作だった。あれが出たとき僕は任天堂はもうだめやなと思った」と述懐している。
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==状況の変化==
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===黎明期===
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黎明期とは、1996年の発売から、同年末までのことを差す。
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次世代ゲーム機戦争と当時呼ばれた一連のゲーム機群の中で、最後にして本命ハードとして発売され、初週の売り上げでは他機種を圧倒する売り上げを見せた。
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だが、その後の対応ソフトの開発は遅れ、次のソフトの発売まで3ヶ月、サードパーティ制ソフトの発売まで5ヶ月を要す事となり、年末商戦に[[マリオカート64]]を投入し、一定の売り上げを上げたとはいえ、ハード売り上げは失速していくこととなる。
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===停滞期===
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停滞期とは、1997年から、1998年7月までのことを差す。
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1月、64での発売が確実と思われていたドラゴンクエストが他機種で発売となることが発表され、更に、3月までソフトが発売されない事態が続くこととなる。本体価格を約1万円下げるという行為に出るも、売り上げの失速は明らかとなり、任天堂始まって以来のミリオンソフトがない年となってしまう。
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また、キラーソフトとして期待されていた[[ゼルダの伝説 時のオカリナ|ゼルダの伝説64]]や外付けハード[[64DD]]の発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。
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このムードに対し、任天堂は64倍増化計画を発表。これは64を当時の普及台数から2倍に増やすと言う計画であり、任天堂は98年にハドソンと共同で[[招布]]を設立しソフトの誘致を、また、自社でも種々の64DD対応ポケモン関連ソフトを発表する。
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だが、ポケモン関連ソフトも本編である[[ポケットモンスター 金/銀/クリスタル|ポケットモンスター 金/銀]]の遅れにつられるかのように、98年前半になっても発売されず、98年8月にロムカセットとして大幅に機能を削減して発売となる。また、[[F-ZERO X]]などのソフトを発売するが、どれも64を普及させるまでには至らなかった。
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===再興期===
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再興期とは、1998年11月21日の[[ゼルダの伝説 時のオカリナ]]の発売から、2000年までの事を差す。
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1998年11月21日任天堂の最後の切り札、ゼルダの伝説 時のオカリナが当初の発売予定から2年、ついに発売となる。ファミ通のクロスレビューでは史上初の40点満点を取り、現在のTouchDS!にも繋がる、ゼルダを遊んでの感想というCMを大量に放映、日本ではロールプレイングが全盛期を迎えていたこともありジャンル名を3DアクションRPGとして発売。
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これにより、ゼルダの伝説 時のオカリナはN64としては96年末のマリオカート以来のミリオンソフトとなり、また本体の普及台数も大幅に引き上げ、一定の効果を見せる。
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また、これを皮切りに1年以上売れ続け、任天堂の新たなるキラーソフトとなった[[ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ]]や[[マリーガル・マネジメント]]で制作していたソフト、招布が誘致したソフトなどが発売されはじめ、N64市場は市場の制覇とはほど遠いものの活況を見せる。
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そして2000年5月、次世代機[[ドルフィン]]が発表され、N64市場は終焉へと向かっていくこととなる。
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===末期===
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末期とは、2001年の9ヶ月間のことを差す。
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2001年にN64で発売されたソフトはわずか6本である。内、任天堂より発売されたソフトはわずか2本。しかし、市場は3月に発売された[[ゲームボーイアドバンス]]と、次世代機ゲームキューブへの期待へすでにシフトしていたため、特段問題とはならなかった。
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そんな中、任天堂からのN64最後のソフトとして[[どうぶつの森]]が発売され、ハーフミリオンを売り上げるものの、話題にあがることもあまりなく、発売時の華やかさとは打って変わってN64は密やかにその使命を終えた。
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==本体セット内容==
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*NINTENDO64本体(NUS-001) 1台
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*NINTENDO64専用コントローラ(グレー)(NUS-005) 1個
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*専用ACアダプタ(NUS-002) 1個
  
 
==仕様==
 
==仕様==
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:ROMカセット64M〜512M・転送レート5.4MB/s
 
:ROMカセット64M〜512M・転送レート5.4MB/s
 
*コントローラ
 
*コントローラ
:3Dスティック標準装備・ボタン数10・背部に拡張コネクタ有
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:[[3Dスティック]]標準装備・ボタン数10・背部に拡張コネクタ有
  
 
==カラーバリエーション==
 
==カラーバリエーション==
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*クリアブラック(RandNetDDでの64DDとのセット販売限定)
 
*クリアブラック(RandNetDDでの64DDとのセット販売限定)
  
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==周辺機器==
 +
*[[コントローラパック]] - NUS-004
 +
*[[NINTENDO64コントローラ]] - NUS-005
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*[[メモリー拡張パック]](ハイレゾパック) - NUS-007
 +
*[[ターミネータパックイジェクタ]] - NUS-012
 +
*[[ターミネータパック]] - NUS-013
 +
*[[振動パック]] - NUS-013
 +
*[[64GBパック]] - NUS-019
 +
*[[NINTENDO64 VRS]] - NUS-020
 +
*[[NINTENDO64 マイク]] - NUS-021
 +
*[[NINTENDO64 VRS|NINTENDO64 マイクホルダー]] - NUS-022
 +
*[[NINTENDO64 VRS|NINTENDO64 コントローラ用マイクホルダー]] - NUS-025
 +
*[[NINTENDO64 マイク|NINTENDO64 マイクカバー]] - NUS-026
 +
*[[NINTENDO64 キャプチャーカセット]] - NUS-028
 +
*[[64GBケーブル]] - 未発売
 +
 +
==対応ソフト==
 +
*[[:Category:64ソフト|全発売ソフト]]
 +
*[[:Category:64ソフト(任天堂発売)|任天堂発売ソフト]]
  
 
==受賞履歴==
 
==受賞履歴==
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*日本産業デザイン振興会 グッドデザイン賞金賞
 
*日本産業デザイン振興会 グッドデザイン賞金賞
  
 +
==互換機==
 +
*[[ピカチュウNINTENDO64]]
 +
 +
==関連項目==
 +
*[[マリーガル・マネジメント]]
 +
*[[ドリームチーム]]
 +
*[[神遊機]]
  
 
==関連サイト==
 
==関連サイト==
[http://www.nintendo.co.jp/ 任天堂株式会社]
+
*{{公式|URI=https://www.nintendo.co.jp/n01/n64/hardware/index.html}}
 +
*{{リンク任天堂}}
 +
*[http://sgi.com SGI]
  
[http://sgi.com SGI]
+
[[Category:ハードウェア]]

2017年4月21日 (金) 14:31時点における最新版

Hard Tips
型式NUS-001
対応メディアN64専用カセット
ストレージコントローラパック(256K)
発売元任天堂
発売日1996年6月23日
価格25000円
16800円(1998.03.14〜)
14000円(1998.07.01〜)
開発コードプロジェクトリアリティ

NINTENDO64(ニンテンドウろくじゅうよん)』とは、任天堂が発売した第四世代据置型ゲーム機の名称であり、2007年現在、任天堂から発売された最後のカセット式ハードである。愛称はロクヨンで、表記上はN64や単に64と書かれることが多い。

目次

概要

型式名称のNUSはNintendo Ultra Sixtyfourの頭文字であり、ウルトラファミコンやウルトラ64と言われていた時代の名残を超している。任天堂据置機としては初の日米欧が同じ名前となるハードで命名者は糸井 重里。

また、NINTENDO GAMECUBE以降の日本語表記は「ニンテンドー」であるが、NINTENDO64やNINTENDO POWERは「ニンテンドウ」である。これは日本語表記で「ニンテンドー64」と表記すると「任天堂 - 64」の様に取られてしまうためにGC登場までは「ニンテンドウ」の表記が用いられた。

1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。

ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなる。

このことに対し、任天堂の情報開発本部長である宮本 茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、スーパーマリオ64もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。

また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面もあり、任天堂のコントローラでは最大の10ボタンかつ、3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代のNINTENDO GAMECUBEより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。

後年、当時任天堂の社長であった山内 溥は「NINTENDO64は失敗作だった。あれが出たとき僕は任天堂はもうだめやなと思った」と述懐している。

状況の変化

黎明期

黎明期とは、1996年の発売から、同年末までのことを差す。

次世代ゲーム機戦争と当時呼ばれた一連のゲーム機群の中で、最後にして本命ハードとして発売され、初週の売り上げでは他機種を圧倒する売り上げを見せた。

だが、その後の対応ソフトの開発は遅れ、次のソフトの発売まで3ヶ月、サードパーティ制ソフトの発売まで5ヶ月を要す事となり、年末商戦にマリオカート64を投入し、一定の売り上げを上げたとはいえ、ハード売り上げは失速していくこととなる。

停滞期

停滞期とは、1997年から、1998年7月までのことを差す。

1月、64での発売が確実と思われていたドラゴンクエストが他機種で発売となることが発表され、更に、3月までソフトが発売されない事態が続くこととなる。本体価格を約1万円下げるという行為に出るも、売り上げの失速は明らかとなり、任天堂始まって以来のミリオンソフトがない年となってしまう。

また、キラーソフトとして期待されていたゼルダの伝説64や外付けハード64DDの発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。

このムードに対し、任天堂は64倍増化計画を発表。これは64を当時の普及台数から2倍に増やすと言う計画であり、任天堂は98年にハドソンと共同で招布を設立しソフトの誘致を、また、自社でも種々の64DD対応ポケモン関連ソフトを発表する。

だが、ポケモン関連ソフトも本編であるポケットモンスター 金/銀の遅れにつられるかのように、98年前半になっても発売されず、98年8月にロムカセットとして大幅に機能を削減して発売となる。また、F-ZERO Xなどのソフトを発売するが、どれも64を普及させるまでには至らなかった。

再興期

再興期とは、1998年11月21日のゼルダの伝説 時のオカリナの発売から、2000年までの事を差す。

1998年11月21日任天堂の最後の切り札、ゼルダの伝説 時のオカリナが当初の発売予定から2年、ついに発売となる。ファミ通のクロスレビューでは史上初の40点満点を取り、現在のTouchDS!にも繋がる、ゼルダを遊んでの感想というCMを大量に放映、日本ではロールプレイングが全盛期を迎えていたこともありジャンル名を3DアクションRPGとして発売。

これにより、ゼルダの伝説 時のオカリナはN64としては96年末のマリオカート以来のミリオンソフトとなり、また本体の普及台数も大幅に引き上げ、一定の効果を見せる。

また、これを皮切りに1年以上売れ続け、任天堂の新たなるキラーソフトとなったニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズマリーガル・マネジメントで制作していたソフト、招布が誘致したソフトなどが発売されはじめ、N64市場は市場の制覇とはほど遠いものの活況を見せる。

そして2000年5月、次世代機ドルフィンが発表され、N64市場は終焉へと向かっていくこととなる。

末期

末期とは、2001年の9ヶ月間のことを差す。

2001年にN64で発売されたソフトはわずか6本である。内、任天堂より発売されたソフトはわずか2本。しかし、市場は3月に発売されたゲームボーイアドバンスと、次世代機ゲームキューブへの期待へすでにシフトしていたため、特段問題とはならなかった。

そんな中、任天堂からのN64最後のソフトとしてどうぶつの森が発売され、ハーフミリオンを売り上げるものの、話題にあがることもあまりなく、発売時の華やかさとは打って変わってN64は密やかにその使命を終えた。

本体セット内容

  • NINTENDO64本体(NUS-001) 1台
  • NINTENDO64専用コントローラ(グレー)(NUS-005) 1個
  • 専用ACアダプタ(NUS-002) 1個

仕様

  • CPU
Mips 64bit RISC CPU(R4000 Series Customize)93.75MHz
  • メモリ
RAMBUS D-RAM 36Mbit・転送速度最大4500Mbit/sec
  • コプロセッサ
Realtime media Co-Processor(RCP)62.5MHz
  • 表示性能
画面解像度256×224〜640×480
フリッカーフリー・インターレースモードサポート
最大32bitRGBAカラーバッファ・標準21bitカラー出力
Z-バッファ・エッジアンチエイリアシング・本格的テクスチャマッピング・トライリニア・ミップマップ・インターポレーション・テクスチャ・環境マッピング・パースペクティブ補正など
  • 使用電源
AC 100V 50/60Hz 45VA(>DC 3.3V 2.7A・>DC 12V 0.8A)
  • 消費電力
約19W
  • 使用温度範囲
5〜40℃
  • 本体最大寸法
幅260mm×奥行き190mm×高さ73mm
  • 本体重量
約880g
  • コントローラポート
150bps・3PINコネクタ4機装着
  • 拡張コネクタ
本体下部50PINコネクタ(10MB/s)・本体上部30PINコネクタ
  • 媒体
ROMカセット64M〜512M・転送レート5.4MB/s
  • コントローラ
3Dスティック標準装備・ボタン数10・背部に拡張コネクタ有

カラーバリエーション

  • クリアブルー(1999年12月1日(木)発売)
  • クリアレッド(1999年12月1日(木)発売)
  • トイザらス限定ゴールド(トイザらス限定販売)
  • クリアブラック(RandNetDDでの64DDとのセット販売限定)

周辺機器

対応ソフト

受賞履歴

  • Machine of The Year 96
  • 日本産業デザイン振興会 グッドデザイン賞金賞

互換機

関連項目

関連サイト