9行: | 9行: | ||
ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなる。 | ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなる。 | ||
− | + | このことに対し、同社の情報開発本部長である宮本茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、[[マリオ64]]もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。 | |
また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンであり、さらに3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代の[[ゲームキューブ]]より誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。 | また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンであり、さらに3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代の[[ゲームキューブ]]より誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。 |
『NINTENDO64(ニンテンドウ64)』は任天堂が発売した第四世代据置型ゲーム機の名称であり、2007年現在、任天堂から発売された最後のカセット式ハードである。型式名称のNUSはNintendo Ultra Sixtyfourの頭文字であり、ウルトラファミコンと言われていた時代の名残を超している。任天堂据置機初の日米欧が同じ名前であり、命名者は糸井重里。
1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。
ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなる。
このことに対し、同社の情報開発本部長である宮本茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、マリオ64もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。
また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンであり、さらに3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代のゲームキューブより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。
目次 |
黎明期とは、1996年の発売から、同年末までのことを差す。
次世代ゲーム機戦争と当時呼ばれた一連のゲーム機群の中で、最後にして本命ハードとして発売され、初週の売り上げでは他機種を圧倒する売り上げを見せた。
だが、その後の対応ソフトの開発は遅れ、次のソフトの発売まで3ヶ月、サードパーティ制ソフトの発売まで5ヶ月を要す事となり、年末商戦にマリオカート64を投入し、一定の売り上げを上げたとはいえ、ハード売り上げは失速していくこととなる。
停滞期とは、1997年から、1998年7月までのことを差す。
1月、64での発売が確実と思われていたドラゴンクエストが他機種で発売となることが発表され、更に、3月までソフトが発売されない事態が続くこととなる。本体価格を約1万円下げるという行為に出るも、売り上げの失速は明らかとなり、任天堂始まって以来のミリオンソフトがない年となってしまう。
また、キラーソフトとして期待されていたゼルダの伝説64や外付けハード64DDの発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。
このムードに対し、任天堂は64倍増化計画を発表。これは64を当時の普及台数から2倍に増やすと言う計画であり、任天堂は98年にハドソンと共同で招布を設立しソフトの誘致を、また、自社でも種々の64DD対応ポケモン関連ソフトを発表する。
だが、ポケモン関連ソフトも本編であるポケットモンスター金銀の遅れにつられるかのように、98年前半になっても発売されず、98年8月にロムカセットとして大幅に機能を削減して発売となる。また、F-ZERO Xなどのソフトを発売するが、どれも64を普及させるまでには至らなかった。
再興期とは、1998年11月21日のゼルダの伝説「時のオカリナ」の発売から、2000年までの事を差す。
1998年11月21日任天堂の最後の切り札、ゼルダの伝説「時のオカリナ」が当初の発売予定から2年、ついに発売となる。ファミ通のクロスレビューでは史上初の40点満点を取り、現在のtouchDSにも繋がる、ゼルダを遊んでの感想というCMを大量に放映、ジャンル名を3DアクションRPGとして発売。
これにより、ゼルダの伝説「時のオカリナ」は64としては96年末のマリオカート以来のミリオンソフトとなり、また本体の普及台数も大幅に引き上げ、一定の効果を見せる。
また、これを皮切りに1年以上売れ続け、任天堂の新たなるキラーソフトとなったニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズやマリーガルマネージメントで制作していたソフト、招布が誘致したソフトなどが発売されはじめ、64市場は市場の制覇とはほど遠いものの活況を見せる。
そして2000年5月、次世代機ドルフィンが発表され、64市場は終焉へと向かっていくこととなる。
末期とは、2001年の9ヶ月間のことを差す。
2001年に64で発売されたソフトはわずか6本である。内、任天堂より発売されたソフトはわずか2本。しかし、市場は3月に発売されたゲームボーイアドバンスと、次世代機ゲームキューブへの期待へすでにシフトしていたため、特段問題とはならなかった。
そんな中、任天堂からの64最後のソフトとしてどうぶつの森が発売され、ハーフミリオンを売り上げるものの、話題にあがることもあまりなく、発売時の華やかさとは打って変わり、64は密やかにその使命を終えた。