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また、キラーソフトとして期待されていたゼルダの伝説64の発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。 | また、キラーソフトとして期待されていたゼルダの伝説64の発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。 | ||
− | + | このムードに対し、任天堂は64倍増化計画を発表。これは64を当時の普及台数から2倍に増やすと言う計画であり、任天堂は98年にハドソンと共同で招布を設立しソフトの誘致を、また、自社でも種々のポケモン関連ソフトを発表する。 | |
===再興期=== | ===再興期=== |
『NINTENDO64』は任天堂が発売した第四世代据置型ゲーム機の名称であり、2007年現在、任天堂から発売された最後のカセット式ハードである。型式名称のNUSはNintendo Ultra Sixtyfourの頭文字である。
1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。
ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなる。元々開発の難しいハードであったこともあり、同時発売以外のソフトの発売が3ヶ月後、サードパーティ制ソフトの発売が6ヶ月後と、対応ソフト開発の遅れを招くこととなる。
このことに対し、同社の情報開発本部長である宮本茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、マリオ64もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。
また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンであり、さらに3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代のゲームキューブより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。
目次 |
黎明期とは、1996年の発売から、同年末までのことを差す。
次世代ゲーム機戦争と当時呼ばれた一連のゲーム機群の中で、最後にして本命ハードとして発売され、初週の売り上げでは他機種を圧倒する売り上げを見せた。
だが、その後の対応ソフトの開発は遅れ、次のソフトの発売まで3ヶ月、サードパーティ制ソフトの発売まで6ヶ月を要す事となり、年末商戦にマリオカート64を投入し、一定の売り上げを上げたとはいえ、ハード売り上げは失速していくこととなる。
暗黒期とは、1997年から、1998年7月までのことを差す。
1月、64での発売が確実と思われていたドラゴンクエストが他機種で発売となることが発表され、更に、3月までソフトが発売されない事態が続くこととなる。本体価格を約1万円下げるという行為に出るも、売り上げの失速は明らかとなり、任天堂始まって以来のミリオンソフトがない年となってしまう。
また、キラーソフトとして期待されていたゼルダの伝説64の発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。
このムードに対し、任天堂は64倍増化計画を発表。これは64を当時の普及台数から2倍に増やすと言う計画であり、任天堂は98年にハドソンと共同で招布を設立しソフトの誘致を、また、自社でも種々のポケモン関連ソフトを発表する。
再興期とは、1998年11月21日のゼルダの伝説「時のオカリナ」の発売から、2000年までの事を差す。
末期とは、2001年の9ヶ月間のことを差す。