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また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンであり、さらに3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代のゲームキューブより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。 | また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンであり、さらに3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代のゲームキューブより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。 | ||
− | <!-- | + | <!--それに及んで任天堂も戦略的に1997年11月のスペースワールドに端を発する大幅なテコ入れを始める。任天堂自身はGBソフト「ポケットモンスター」の人気に肖って『ポケモンスタジアム』を開発、当初は『64DD』用として開発を進めていたが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と同様同機の普及を図ってN64用に変更した。サードパーティに対しては98年5月には『ハドソン』と共に『招布』を設立、開発会社に対しては難しいとされるN64ソフト開発を支援し、メジャータイトルや版権を持つ会社に対しては開発を請け負って優れたソフトの充実を図った。結果、1998年8月に発売された『ポケモンスタジアム』で本体の普及も若干ながら上向き、11月に発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で久しぶりのミリオンヒットを達成、大幅な本体普及に成功している。その波に乗って1998年のクリスマスは『バンジョーとカズーイの大冒険』『ピカチュウげんきでちゅう』『マリオパーティ』の三作品で大ヒットを記録、再びN64が見直される契機となった。 |
− | それに及んで任天堂も戦略的に1997年11月のスペースワールドに端を発する大幅なテコ入れを始める。任天堂自身はGBソフト「ポケットモンスター」の人気に肖って『ポケモンスタジアム』を開発、当初は『64DD』用として開発を進めていたが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と同様同機の普及を図ってN64用に変更した。サードパーティに対しては98年5月には『ハドソン』と共に『招布』を設立、開発会社に対しては難しいとされるN64ソフト開発を支援し、メジャータイトルや版権を持つ会社に対しては開発を請け負って優れたソフトの充実を図った。結果、1998年8月に発売された『ポケモンスタジアム』で本体の普及も若干ながら上向き、11月に発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で久しぶりのミリオンヒットを達成、大幅な本体普及に成功している。その波に乗って1998年のクリスマスは『バンジョーとカズーイの大冒険』『ピカチュウげんきでちゅう』『マリオパーティ』の三作品で大ヒットを記録、再びN64が見直される契機となった。 | + | |
1999年は『大乱闘スマッシュブラザーズ』が1年以上にわたるロングヒットを続けるなどの大ヒットを記録し、『ポケモンスナップ』『ポケモンスタジアム2』といった『ポケモン』をモチーフにした作品もヒットを記録するなど、N64そのものの売れ行きは鈍っているもののソフトの売り上げは好調を持続する。また、一部を除いたサードパーティのソフト群の不調とは対称的に『マリオゴルフ64』『カスタムロボ』『ドンキーコング64』『マリオパーティ2』といった外作の作品もそれぞれ好調で、次世代のハードに向けて、かつてのサードパーティにかかりきらないゲームソフトの充実が見えた。この任天堂ソフトの好調ぶりは『星のカービィ64』や『マリオテニス64』など2000年も継続しており、全体的に鈍ってきているゲームソフトの売り上げの中で異彩を放っている。 | 1999年は『大乱闘スマッシュブラザーズ』が1年以上にわたるロングヒットを続けるなどの大ヒットを記録し、『ポケモンスナップ』『ポケモンスタジアム2』といった『ポケモン』をモチーフにした作品もヒットを記録するなど、N64そのものの売れ行きは鈍っているもののソフトの売り上げは好調を持続する。また、一部を除いたサードパーティのソフト群の不調とは対称的に『マリオゴルフ64』『カスタムロボ』『ドンキーコング64』『マリオパーティ2』といった外作の作品もそれぞれ好調で、次世代のハードに向けて、かつてのサードパーティにかかりきらないゲームソフトの充実が見えた。この任天堂ソフトの好調ぶりは『星のカービィ64』や『マリオテニス64』など2000年も継続しており、全体的に鈍ってきているゲームソフトの売り上げの中で異彩を放っている。 | ||
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次世代ゲーム機戦争と当時呼ばれた一連のゲーム機群の中で、最後にして本命ハードとして発売され、初週の売り上げでは他機種を圧倒する売り上げを見せた。 | 次世代ゲーム機戦争と当時呼ばれた一連のゲーム機群の中で、最後にして本命ハードとして発売され、初週の売り上げでは他機種を圧倒する売り上げを見せた。 | ||
− | + | だが、その後の対応ソフトの開発は遅れ、次のソフトの発売まで3ヶ月、サードパーティ制ソフトの発売まで6ヶ月を要す事となり、年末商戦にマリオカート64を投入し、一定の売り上げを上げたとはいえ、ハード売り上げは失速していくこととなる。 | |
===暗黒期=== | ===暗黒期=== | ||
暗黒期とは、1997年から、1998年7月までのことを差す。 | 暗黒期とは、1997年から、1998年7月までのことを差す。 | ||
+ | 1月、64での発売が確実と思われていたドラゴンクエストが他機種で発売となることが発表され、更に、3月までソフトが発売されない事態が続くこととなる。体価格を約1万円下げるという行為に出るも、売り上げの失速は明らかとなり、任天堂始まって以来のミリオンソフトがない年となってしまう。 | ||
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+ | また、キラーソフトとして期待されていたゼルダの伝説64の発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。 | ||
===再興期=== | ===再興期=== |
『NINTENDO64』は任天堂が発売した第四世代据置型ゲーム機の名称であり、2007年現在、任天堂から発売された最後のカセット式ハードである。型式名称のNUSはNintendo Ultra Sixtyfourの頭文字である。
1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。
ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなる。元々開発の難しいハードであったこともあり、同時発売以外のソフトの発売が3ヶ月後、サードパーティ制ソフトの発売が6ヶ月後と、対応ソフト開発の遅れを招くこととなる。
このことに対し、同社の情報開発本部長である宮本茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、マリオ64もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。
また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンであり、さらに3種類の持ち方が可能なコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂は「ゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった」と述べており、次世代のゲームキューブより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発へシフトしていくこととなる。
目次 |
黎明期とは、1996年の発売から、同年末までのことを差す。
次世代ゲーム機戦争と当時呼ばれた一連のゲーム機群の中で、最後にして本命ハードとして発売され、初週の売り上げでは他機種を圧倒する売り上げを見せた。
だが、その後の対応ソフトの開発は遅れ、次のソフトの発売まで3ヶ月、サードパーティ制ソフトの発売まで6ヶ月を要す事となり、年末商戦にマリオカート64を投入し、一定の売り上げを上げたとはいえ、ハード売り上げは失速していくこととなる。
暗黒期とは、1997年から、1998年7月までのことを差す。
1月、64での発売が確実と思われていたドラゴンクエストが他機種で発売となることが発表され、更に、3月までソフトが発売されない事態が続くこととなる。体価格を約1万円下げるという行為に出るも、売り上げの失速は明らかとなり、任天堂始まって以来のミリオンソフトがない年となってしまう。
また、キラーソフトとして期待されていたゼルダの伝説64の発売に関しても、何度も延期が繰り返されこれが更に停滞ムードを広げることとなる。
再興期とは、1998年11月21日のゼルダの伝説「時のオカリナ」の発売から、2000年までの事を差す。
末期とは、2001年の9ヶ月間のことを差す。