NINTENDO64

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1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。
 
1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。
  
<!--ゲームの品質としては最も定評のある任天堂ブランドのゲームが遊べる唯一の家庭用ゲーム機として、また「実況パワフルプロ野球」シリーズに代表される秀逸なスポーツゲームが遊べる家庭用ゲーム機として、両方のファンを中心に、少数派ではあったが根強い人気を集めた。
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ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなり、対応ソフト開発の遅れを招くこととなる。このことに対し、同社の情報開発本部長である宮本茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、マリオ64もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。
『ゲームが変わる、64が変える』のコピーの通り、同時発売の対応ソフト『スーパーマリオ64』は3D空間内で『マリオ』を自在に動かせるゲームとしてその後のゲームの進化を感じさせるに十分なもので、多くのファンに指示されて発売から1週間の出荷台数はほぼ完売を達成した。しかし、3Dという新たなゲームの表現に任天堂自体や海外の「ドリームチーム」と呼ばれた協力会社の開発は遅れ、更にこれまで任天堂と親密な関係にあり、 NINTENDO(以下、N64)向けにソフト開発を進めていたスクウェアが『プレイステーション』に鞍替えしたことで、元々『少数精鋭主義』を謳って一般のサードパーティへの技術開示が1995年12月まで遅らせ、開発機材も高価で品薄なことから普及していなかったこともあって以降のソフトの発売予定が全く立たなくなってしまった。苦し紛れにこの年任天堂から発売されるタイトルとして14本を発表したが、1996年中に発売出来たのはわずかに2本で、多くのソフトは大幅な延期や発売中止を余儀なくされている。結局発売当日の3本の次に発売された『ウエーブレース64』はなんと夏も終わった9月まで発売がずれこみ、当然本体の売れ行きは減速することになる。
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また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンのコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂はゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった。と述べており、次世代のゲームキューブより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発に向かっていくこととなる。
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<!--多くのファンに指示されて発売から1週間の出荷台数はほぼ完売を達成した。しかし、3Dという新たなゲームの表現に任天堂自体や海外の「ドリームチーム」と呼ばれた協力会社の開発は遅れ、更にこれまで任天堂と親密な関係にあり、 NINTENDO(以下、N64)向けにソフト開発を進めていたスクウェアが『プレイステーション』に鞍替えしたことで、元々『少数精鋭主義』を謳って一般のサードパーティへの技術開示が1995年12月まで遅らせ、開発機材も高価で品薄なことから普及していなかったこともあって以降のソフトの発売予定が全く立たなくなってしまった。苦し紛れにこの年任天堂から発売されるタイトルとして14本を発表したが、1996年中に発売出来たのはわずかに2本で、多くのソフトは大幅な延期や発売中止を余儀なくされている。結局発売当日の3本の次に発売された『ウエーブレース64』はなんと夏も終わった9月まで発売がずれこみ、当然本体の売れ行きは減速することになる。
 
それでも1995年11月の山内社長の講演や、エニックスと任天堂のこれまでの関係から日本最高の人気を誇るRPG『ドラゴンクエスト』の新作が同機向けに発売されるという観測が一般的で、ソフトの充実を待ちつつ、本体も緩やかに普及していった。が、『エニックス』からサードパーティ第1弾ソフトとして発売された『ワンダープロジェクトJ2』は散々な発売本数となり、後には最初の破格の安値ソフトとして知られる結果となってしまう。これを受けて『エニックス』もN64の将来性に疑問を感じ、翌年1月にはPS、SSへの参入と「ドラゴンクエスト7」のPSでの発売を発表、N64へは 1997年6月に発売した『ゆけゆけ!トラブルメーカーズ』を最後に撤退してしまった。一方任天堂はN64ソフトとして最も売れた『マリオカート64』の発売もあって1996年のクリスマス商戦は流石に強みを見せたが、ソフト不足は相変らずで一方PSではFF7の発売で画期づくのに対して1997年に入って3月までソフトの発売がない状態が続き、3月に16800円まで定価を下げ、ソフトの価格も全体的に抑えて普及を図ったものの、失速は目に見えて明らかな状態に陥ってしまう。その余波で1997年のN64ソフトは『コナミ』の『実況パワフルプロ野球4』や『ハドソン』の『爆ボンバーマン』などサードパーティのソフトに大ヒットの作品が生まれたものの、屋台骨であるはずの任天堂自身はというと前作が好評であった『スターフォックス64』や『ヨッシーストーリー』は発売時期の悪さも手伝って売り上げに結びつかず、『ゴールデンアイ 007』は海外での700万本を超える大ヒットに比して低調な売れ行きで、他の海外制作の作品も一部で好評価を得ながらやはり販売には結びつかなかった。またサードパーティの参入も遅々として進まず、沈滞ムードは一層広まってしまう。
 
それでも1995年11月の山内社長の講演や、エニックスと任天堂のこれまでの関係から日本最高の人気を誇るRPG『ドラゴンクエスト』の新作が同機向けに発売されるという観測が一般的で、ソフトの充実を待ちつつ、本体も緩やかに普及していった。が、『エニックス』からサードパーティ第1弾ソフトとして発売された『ワンダープロジェクトJ2』は散々な発売本数となり、後には最初の破格の安値ソフトとして知られる結果となってしまう。これを受けて『エニックス』もN64の将来性に疑問を感じ、翌年1月にはPS、SSへの参入と「ドラゴンクエスト7」のPSでの発売を発表、N64へは 1997年6月に発売した『ゆけゆけ!トラブルメーカーズ』を最後に撤退してしまった。一方任天堂はN64ソフトとして最も売れた『マリオカート64』の発売もあって1996年のクリスマス商戦は流石に強みを見せたが、ソフト不足は相変らずで一方PSではFF7の発売で画期づくのに対して1997年に入って3月までソフトの発売がない状態が続き、3月に16800円まで定価を下げ、ソフトの価格も全体的に抑えて普及を図ったものの、失速は目に見えて明らかな状態に陥ってしまう。その余波で1997年のN64ソフトは『コナミ』の『実況パワフルプロ野球4』や『ハドソン』の『爆ボンバーマン』などサードパーティのソフトに大ヒットの作品が生まれたものの、屋台骨であるはずの任天堂自身はというと前作が好評であった『スターフォックス64』や『ヨッシーストーリー』は発売時期の悪さも手伝って売り上げに結びつかず、『ゴールデンアイ 007』は海外での700万本を超える大ヒットに比して低調な売れ行きで、他の海外制作の作品も一部で好評価を得ながらやはり販売には結びつかなかった。またサードパーティの参入も遅々として進まず、沈滞ムードは一層広まってしまう。
 
それに及んで任天堂も戦略的に1997年11月のスペースワールドに端を発する大幅なテコ入れを始める。任天堂自身はGBソフト「ポケットモンスター」の人気に肖って『ポケモンスタジアム』を開発、当初は『64DD』用として開発を進めていたが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と同様同機の普及を図ってN64用に変更した。サードパーティに対しては98年5月には『ハドソン』と共に『招布』を設立、開発会社に対しては難しいとされるN64ソフト開発を支援し、メジャータイトルや版権を持つ会社に対しては開発を請け負って優れたソフトの充実を図った。結果、1998年8月に発売された『ポケモンスタジアム』で本体の普及も若干ながら上向き、11月に発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で久しぶりのミリオンヒットを達成、大幅な本体普及に成功している。その波に乗って1998年のクリスマスは『バンジョーとカズーイの大冒険』『ピカチュウげんきでちゅう』『マリオパーティ』の三作品で大ヒットを記録、再びN64が見直される契機となった。
 
それに及んで任天堂も戦略的に1997年11月のスペースワールドに端を発する大幅なテコ入れを始める。任天堂自身はGBソフト「ポケットモンスター」の人気に肖って『ポケモンスタジアム』を開発、当初は『64DD』用として開発を進めていたが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と同様同機の普及を図ってN64用に変更した。サードパーティに対しては98年5月には『ハドソン』と共に『招布』を設立、開発会社に対しては難しいとされるN64ソフト開発を支援し、メジャータイトルや版権を持つ会社に対しては開発を請け負って優れたソフトの充実を図った。結果、1998年8月に発売された『ポケモンスタジアム』で本体の普及も若干ながら上向き、11月に発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』で久しぶりのミリオンヒットを達成、大幅な本体普及に成功している。その波に乗って1998年のクリスマスは『バンジョーとカズーイの大冒険』『ピカチュウげんきでちゅう』『マリオパーティ』の三作品で大ヒットを記録、再びN64が見直される契機となった。

2007年10月25日 (木) 16:19時点における版

テンプレート:ハードウェア

『NINTENDO64』は任天堂が発売した第四世代据置型ゲーム機の名称であり、2007年現在、任天堂から発売された最後のカセット式ハードである。型式名称のNUSはNintendo Ultra Sixtyfourの頭文字である。

1993年8月22日、「プロジェクトリアリティ」のコードネームで開発が発表され、ワークステーションと同等の能力を持つマシンを子供に触らせたいという目標を持って、シリコングラフィックス社と協同で開発された。 1995年8月に正式名称が正式発表され、1995年末、1996年4月の2度の発売延期を経て1996年6月23日に発売された。

ハードのキャッチコピーは『ゲームが変わる、64が変える』というもので、当時主流であった2Dのゲームから、完全3Dのゲームへの移行を謳っていた、しかし、この事が開発の困難さを招く要因の一つとなり、対応ソフト開発の遅れを招くこととなる。このことに対し、同社の情報開発本部長である宮本茂は「当時は何でも3Dという3Dシンドロームのようなものがあり、マリオ64もそれに一役買ってしまった」と後年述懐している。

また、3Dにゲームが変化したことにより、操作を困難にしたと言う側面も指摘もあり、同社のコントローラでは最大の10ボタンのコントローラを付属することとなる。これに対し、任天堂はゲームの操作を難しいものだと言う印象を与えてしまった。と述べており、次世代のゲームキューブより誰にでも操作のできるハードとソフトの開発に向かっていくこととなる。


目次

本体セット内容

  • NINTENDO 64 本体(NUS-001)1台
  • グレーの専用コントローラ(NUS-005)1個
  • 専用ACアダプタ(NUS-002)1個


仕様

  • CPU
Mips 64bit RISC CPU(R4000 Series Customize)93.75MHz
  • メモリ
RAMBUS D-RAM 36Mbit・転送速度最大4500Mbit/sec
  • コプロセッサ
Realtime media Co-Processor(RCP)62.5MHz
  • 表示性能
画面解像度256×224〜640×480
フリッカーフリー・インターレースモードサポート
最大32bitRGBAカラーバッファ・標準21bitカラー出力
Z-バッファ・エッジアンチエイリアシング・本格的テクスチャマッピング・トライリニア・ミップマップ・インターポレーション・テクスチャ・環境マッピング・パースペクティブ補正など
  • 使用電源
AC 100V 50/60Hz 45VA(>DC 3.3V 2.7A・>DC 12V 0.8A)
  • 消費電力
約19W
  • 使用温度範囲
5〜40℃
  • 本体最大寸法
幅260mm×奥行き190mm×高さ73mm
  • 本体重量
約880g
  • コントローラポート
150bps・3PINコネクタ4機装着
  • 拡張コネクタ
本体下部50PINコネクタ(10MB/s)・本体上部30PINコネクタ
  • 媒体
ROMカセット64M〜512M・転送レート5.4MB/s
  • コントローラ
3Dスティック標準装備・ボタン数10・背部に拡張コネクタ有

カラーバリエーション

  • クリアブルー(1999年12月1日(木)発売)
  • クリアレッド(1999年12月1日(木)発売)
  • トイザらス限定ゴールド(トイザらス限定販売)
  • クリアブラック(RandNetDDでの64DDとのセット販売限定)


受賞履歴

  • Machine of The Year 96
  • 日本産業デザイン振興会 グッドデザイン賞金賞


関連サイト

任天堂株式会社

SGI